水神の加護を受ける国、ゼウシア。その世界では最も大きなこの国は、特に芸能が大きな盛り上がりを見せていた。水神の加護を受けているからなのか、水を使ったイベントやステージも多く、今日も多くの場所で様々なパフォーマンスが行われている。
日々進化を見せる大きな技術力と国土を持ち、不自由もほとんどないその国で、天原いちごは路上での歌のパフォーマンスを行っていた。いわゆる路上ライブ、というやつだ。事前に許可を取り、マイクとスピーカーを置いて、通行人に少しでも聞いてもらえるように歌い続ける。そのさなか、エクラットプロダクションからスカウトを受けることになった。
エクラットプロダクション。数十年前からこの国のゼウス領──この国の都会に当たる場所、現代日本で言う東京──に事務所を構える大手アイドル芸能事務所であり、設立当初から様々なアイドルや歌手を世に生み出してきた、名実ともに大きな事務所である。
その大きな事務所にスカウトされる前、いちごは普通の十四歳の女の子であった。素直で優しく、元気で、少し人より歌が上手いだけの、ただの女の子。そんな彼女は、そのスカウトを承諾し、大きな事務所であるエクラットプロダクションでアイドルの研修生として、その普通から脱却しようと一歩を踏み出していた。いつか、何度も画面越しに見た、可愛らしく、それでいて輝いているアイドルに自分もなることを夢見て。
これは、そんな天原いちごがアイドルになった、最初の話──。
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スカウトを受けてから数日後、事務所を初めて訪れたその日。いちごを待っていたのは一人の先輩だ。いちごの姿を見つけると「こっちこっち!」と大きく手を振り、いちごを笑顔で出迎える。
「あんたがいちごだね! アタシはロゼ、オオカミの獣人さ。堅苦しくなくていいから、仲良くしてくれると嬉しいよ」
そうベージュ色の毛並みのアイドルの先輩、ロゼが手を伸ばす。「えっ、あっ」と言葉をつかえながらも、慌てて差し出された手をいちごは両手で握る。
「よろしく! えっと、ロゼ! 私は天原いちご! 今日からよろしくね!」
そうたどたどしく言ういちごに、ロゼは「ふはっ」と笑った。先輩である自分にも、慣れないながらも同じ場所に立とうとする彼女の姿が面白く、加えてたまらなく愛おしく思えた。その笑いを誤魔化しながらこちらこそ、と手を離した後にロゼは「こっちだよ」とレッスン室へ案内する。その間、いちごの経歴について話が盛り上がった。
「いちごは、路上で歌ってるところをスカウトをされてこの道を目指したんだって? アタシ、あんたを応援するよ。負ける気はないけど、いちごは大物の素質がある。それに、歌ってたらスカウトなんて見込みしかないね」
道中そう語るロゼに、いちごは「そんなぁ……」と照れながら謙遜こそしたが、その言葉を否定することは決してしなかった。寧ろ、でもありがとうと感謝までしてくる。その点をロゼは気に入り、また笑う。それを首を傾げて見るいちごに、「あんたを気に入ったってことさ」と言えば、彼女は嬉しそうに笑った。そのまま軽い談笑を重ねながら、目的地であるレッスン室まで歩いていく。
レッスン室の前まで着くと、ロゼはいちごのためにその部屋の扉を開ける。一度はテレビ番組でも見たことがあるような光景に、思わずいちごは「わぁっ……」と声を上げた。その声に笑いながら、ロゼも共に中に入る。先にレッスン室におり、いちごの感嘆する声で二人の存在に気が付いた機人の少女は、見知らぬ顔がいたことで「初めまして」と二人の元へ寄った。
「お、ジェリー。あんたが先にいたのか。いちご、紹介するよ。彼女はジェリー、機人のアイドルさ」
そのロゼの紹介の言葉に、いちごは慌てて頭を下げる。ジェリーは冷静に「頭を上げて」と言いながら、目の前の彼女をくまなく見つめる。
「私はジェリー。ロゼの紹介に預かった通り、機人だよ。君は見た所、人間の子かな」
その言葉にハッとし、いちごは焦らないように何度か深呼吸を重ねる。「気楽にしていいからね」というジェリーの優しい言葉に後押しされ、いちごは落ち着いてから目の前の先輩に自己紹介をする。
「私は天原いちご。言ってくれた通り、人間だよ。今日から研修生として、立派なアイドルになろうと思ってる。まだまだ素人だけど、頑張るから色々教えて欲しいな!」
その言葉に、ジェリーは少し笑って見せた。彼女からは大物になるオーラを感じる。それは機人ゆえに感じるのか、それともアイドルだからこそ感じるのかは分からなかったが、目の前の彼女が良いアイドルになる事だけは確信ができた。よろしく、と言葉を返した後、「私もご一緒していいかな」とジェリーは二人に尋ねる。それを断る気も、その理由もないいちごとロゼはそれを歓迎し、三人での初めてのレッスンが開始された。
まずは先にいちごの実力を測るために、と彼女が軽く歌ってみることになった。多少の音程のずれこそあるものの、自由で伸びやかな彼女の歌はロゼにもジェリーにも真似できないものだ。可愛らしい声で紡がれるその歌は聞いていると疲れが癒されるような感覚がする。
歌唱が終わった後、どうかなとはにかむいちごに、二人は笑って見せた。
「凄く良かったよ、やはり人間が一番アイドルに向いているんだね。私たち機人は、歌うと音程に沿うだけで、融通が利かないから」
聞いていて、とジェリーは歌ってみせる。たしかに彼女の歌は音程が正確で楽譜通りに歌っていたが、ただそれだけ。聞いていて心地良さや安定感はあるのだが、機械音声が歌っている感覚とそう変わらなかった。これを好む者ももちろんいるのだが、いちごのような自由で、のびのびした感覚はない。その代わり、彼女が歌の途中で披露したロボットダンスは見事なものだった。動きに無駄がなく統一性がある。特に、動きを止めた時の些細な表現が素晴らしかった。完全な機械でないのにも関わらず、電源ボタンを探せばどこかに見つかりそうなクオリティだ。自分には到底真似できそうにないそれにいちごは感動し、終始夢中になって眺めていた。
「……と、こんな感じで、私たちはこんな弱点があるんだ。もちろん、ロゼにもね」
そう言い動きを止めたジェリーは、ロゼに目をやった。少しも息を切らしていないジェリーに感心しながら、向けられたロゼにいちごも視線を向ける。そう期待しないでくれよ、と苦笑しながらロゼは自分たち獣人の説明を行う。
「アタシたち獣人は、歌で遠吠えしてしまうことが多々あるんだ。もちろん、抑えようともしてる。ただ、そうしても出てしまうものは出る。本能のようなものだからね。聞いてみるか……って、ハハ。聞くまでもないね」
目を輝かせて、顔に聞きたいと書いてあるいちごを見てロゼは思わず笑ってしまう。その笑いを抑えてから、ロゼは歌声を紡ぎ出す。力強い歌声は内臓を揺らす……が、途中で明らかに歌声ではない、先程彼女が言っていた遠吠えであろう声が挟まった。
「アォオーン!」
それを聞き、慣れないいちごはそれに少し肩を揺らした。それもそのはず、こんなに近くで遠吠えを聞くことなどまずない。普通に生きていれば尚更だ。人とよく似た彼女の口からは、獣の咆哮が出ている。少し驚いたいちごをジェリーは宥めながら、吠えるロゼに変わって解説役を担った。
「獣人はあんな風に時折遠吠えをしてしまうけれど、全身を使ったパフォーマンスをさせれば右に出る者はいない。……ほら、見て」
そう言ってロゼに目を向けさせる。パワフルなその動きは、目を追うことをやめることを許さない。完成されたそれに目を奪われ、次第に心を掴まれる感覚がいちごを支配していた。これが種族的な特徴、そしてこれがアイドルだといちごはようやく実感した。今日からいちごは、それになるのだ。底知れぬ不安感と共に、いちごはそれを上回るほどの未来への高揚感を覚えていた。練習を重ねれば、彼女たちに近付ける。自分も誰かに、今のような感動を与えられる。そう考えれば、胸の高鳴りは増すばかりだ。
「こんな感じで、アタシたちにはそれぞれ特技と弱点があるんだ。その点、人間はそれがない。言い方を悪くすれば特徴がないんだけどね。でも、良い言い方に変えれば、練習すればどんどん成長していく。だから人間は一番アイドルに向いてるってわけさ」
正直少し羨ましい、としみじみ話すロゼに、「そんな……」といちごはタジタジになる。それに追随するように、きっと君なら大丈夫だよとジェリーが言葉を重ねる。それに素直に頷いて、未だ残る高揚感を味わうようにいちごは胸の前で片手をぎゅっと握った。人間が最もアイドルに向いている。その言葉だけで、いちごは自信が持てた。決して、今目の前にいて自分に懇切丁寧に様々なことを教えてくれる二人のことを嫌っているわけではないし、見下しているわけでもない。寧ろ尊敬しているのだ。彼女たちは、今の自分より遥か高みにいるアイドルの先輩だ。実力も、人気も、知名度も彼女たちには遠く及ばない。
しかし、だからこそ超えたいと思った。この二人にさえ感動を与えられるアイドルになろうといちごは心に誓う。それを見計らったのか否か、ジェリーは「じゃあ、レッスンを始めようか」と促す。二人もそれに頷き、まずは準備体操から始めた。
体をよく伸ばし、怪我を防止する。そうしてから、ロゼからはパフォーマンスの指導を、ジェリーからは歌の指導を順に受けた。いちごはそれに着いて行くので精一杯ではあったが、しかしそれが楽しくもあった。踊る度、歌う度にアイドルに一歩近付く感覚がいちごには確かにあった。その感覚がするたびに、いちごはもっとレッスンをしたいと、先輩の背中に食い付いて離れない。それに呼応するように、二人の指導にも、だんだんと熱がこもっていった。
しかし、体力の限界というものはある。息を切らし、体力の限界が訪れる前にレッスンを一度止め、休憩に入る。ドリンクを飲みながら、ロゼは「あんた、本当にいい才能があるね! 教えがいがあるよ!」と笑う。
「レッスン中、アタシたちに追い付いてやる! て感じがして凄く良かったよ。アタシ、やっぱりいちごみたいな子、好きだよ。応援してる」
そう笑った後、ロゼは何かを思い出したような顔をしていちごの方を見やる。疲れが少しは和らいでいるのを見て、ロゼは年相応の、可愛らしい少女のように笑って見せた。
「そうだ、良い景色を見せてやるよ」
その言葉を聞きジェリーも何をするのか分かったのか、あぁと声を上げた後に「良い提案だね」と賛同する。唯一何のことだか把握できていないいちごは、首を傾げながらもロゼの案内に着いて行く。
この事務所は、レッスン室だけでなくステージも併設されている。それをまだ知らないいちごは、案内板の『ステージ』の文字と矢印の方向を見て小さく「えっ」という言葉を漏らす。それを聞いたジェリーは軽く笑いながら「君の予想の通りだよ」と背を押した。ロゼによって開けられた扉の向こう側にジェリーの後押しで入れば、そこは大きなステージの舞台袖だった。以前までは絶対に入る機会がなかった非現実的な世界に、いちごは思わず周囲を見渡してしまう。
「舞台袖で感動できるなんて、いちごは面白い子だね! ほら、おいで。もっといいものを見せてあげるから」
そう、出会った時のようにロゼが手を差し伸べる。その隣に立ち、同じようにジェリーも手を差し出す。その手を片手ずつでしっかり握りながら、いちごは二人の先輩と共にステージの上へ立った。
客人こそ一人もいなかったが、いちごの感動は大きなものだった。広いステージの上に自分が立っている。アイドルとして活躍している二人と共にだ。誰も居なくとも、曲が掛かっていなくとも、本物のアイドルになった気分にいちごは浸った。
しかし、それだけではない。ロゼがこの場所に連れてきたのは、他に大きな理由があった。見てな、という彼女の言葉の後、客席は一気に黄色の光で彩られた。急に現れた光にいちごは驚いたものの、それにすぐに慣れると一気にそれに釘付けになる。
「わ、ぁ……す、すごい……! これ、こんな景色、初めて見た……!」
目を輝かせるいちごを見て、ロゼは嬉しそうにその光の色を変えてみる。今は自分の色、次はジェリーの青色だ。目の前が一気に海か、はたまた青空のようなその景色に、いちごはまた「わぁっ!」と声を上げる。それを見てジェリーも気を良くし、「綺麗だよね、青。私も気に入ってるよ」と語った。それに対してのいちごの肯定は生返事だったが、ジェリーの気分は良かった。可愛らしい後輩が、自分をイメージされた光で感動しているのを見るのはたまらなく嬉しい。それはロゼも同じなのか、他の色を灯してみたり、自分とジェリーの色を半々にしてみたりと工夫を凝らす。その度に目を輝かせるいちごの姿は、幼い少女のようなものでとても可愛らしかった。
そうしてから最後、ロゼはその光を赤に変えた。もちろんそれは、いちごをイメージしてのものだ。一気に客席が隙間のない赤い光に染まり、思わずいちごは言葉を失う。その間に、ロゼが光の説明を行った。
「ここじゃ、パフォーマンスの全てに魔法を使うのが常識なのはいちごも知ってるだろうけど、アタシはこのくらいの魔法なら使えるのさ。いちごは赤がピッタリだと思ったけど、うん。間違いなかった。この色があんたにはぴったりだよ」
そのロゼの言葉を聞いても、いちごは口を動かさない。ジェリーとロゼが顔を見合わせた数分後、ようやくいちごから「凄い……」と言葉が漏れ出した。
「凄い、本当に素敵……。皆、この景色を見てるんだよね。……凄い……」
心の底から感動を覚えているらしい後輩に二人は笑い、彼女の隣に立つ。真っ赤なその光は三人の目に焼き付いて離れない。まるで来客が自分に手を振るように揺れるその光に、いちごは息を呑んだ。
「そうだ、ロゼ。せっかくだし、ここで少しレッスンをするのはどうかな。そうすればいちごとしてもイメージが付きやすいだろうし」
そのジェリーの言葉にロゼも賛同し、その場でレッスンすることが決まった。レッスン室とは違い、鏡がない広いステージ上でのそれはかなり緊張するものではあったが、それもすぐに解けいちごは楽し気に指導を受けた。赤い光に照らされて歌い、踊るいちごの姿に先輩である二人も感化され、レッスンに火が付く。それが少し落ち着いた頃、マイクを持って実際に軽いパフォーマンスを行ってみることになった。ロゼは魔法である光の調整を、ジェリーは音源の操作をするのに集中するため、行うのはいちご一人だ。ステージの真ん中に立ち、マイクを握る。
流れた曲に合わせ、教わった通りに体を動かし、歌を曲と体に乗せる。誰がどう見ても、今の彼女は立派なアイドルだった。それに二人は目を奪われ、アイドルとしてのいちごを、最初の観客として見つめた。楽し気に歌い踊るいちごの姿は、どうしても瞬きするのが惜しいほど、美しく、そして可愛く輝いていた。
曲が終わると同時に、いちごの動きも止まる。ロゼはそんな彼女に駆け寄り「凄いよいちご! プロみたいだ!」と彼女を絶賛した。ジェリーも彼女の元に寄り「本当に、感動した。私の観察眼は間違っていないみたいだね」といちごを褒め称える。それを聞き、いちごは胸の前に手を置きながら二人に言葉を伝える。
「私……もっと、もっと輝きたい。トップアイドルになって、もっと素敵な世界を見てみたいの! お客さんだけじゃない、スタッフさんも、皆が笑顔になってくれて、赤い光に包まれて、私も楽しくて……そんな世界を見たい。ずっとずっと、そこで生きたい!」
そう高らかに言ういちごに一瞬圧巻されたものの、すぐに我に返った二人は彼女を鼓舞した。もちろん、彼女達も負ける気はない。しかし、それでも彼女を応援せずにはいられなかった。真っ直ぐに夢に進もうとする、彼女の姿を。
「良いね! アタシ、あんたを応援するよ。もちろん負ける気はないけど、それでも応援したい。いちご、あんたはほんとに凄い子だよ!」
「私も、君を応援したい。ロゼと同じく何かを譲る気はないけど、それでも応援したいと思う」
その言葉にいちごはありがとうと頷き、そして三人で笑い合った。次はアカペラで、三人でここで歌おうと提案したいちごに二人は頷き、ロゼは赤い光に黄色の光と青色の光を足した。違った雰囲気を見せる客席に目を輝かせながら、いちごは先輩二人とレッスンと称してまた歌う。アイドルとしてのそれが、いちごにとってはたまらなく幸せで、楽しかった。それと同時に、いちごは二人に宣言した夢への気力が増していく。いつか二人に追い付いて、越して、誰も追い付けないほどの高い頂に登りたいと、そう彼女は強く思った。
この時、いちごも、ロゼも、ジェリーも、そしてこの世界に生きる誰もが、まだ知らない。後に赤色がよく似合う少女が、これから大物になり、エクラットプロダクションの顔になることを。そして、彼女の言葉通り本当にトップアイドルに君臨することを──。
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